小学生の頃の話。
虫歯で通っていた歯医者さんに、こう言われた。 「早めに矯正した方がいいよ。親御さんに話してみて」
その言葉を、そのまま家に持ち帰って母に伝えた。
すると母は、すぐに顔をしかめて言った。
「は?何言ってるの?そんなお金かかること言うなんて、親を困らせる気か?親不孝もんやね!」
ただ伝えただけだった。 でも、ひどく怒られた。
何がいけなかったのか、よく分からなかったけど―― すごく悲しくて、怖くて。
「もう二度と、こういうことは言わないでおこう」
そう決めた。
自分の見た目が気になり出した学生の頃、 ふと気づいた。
――あれ?私、歯並びガタガタかも。
それからというもの、写真を撮るときは口を開けない。 これは自分の中での“鉄則”になった。
大人になって、結婚して、子どもが生まれた。 毎日はあっという間に過ぎていく。
矯正したい気持ちは、どこかにずっとあったけど――
費用は高いし、時間もかかる。 正直、そんな余裕はなかった。
「でもさ…それでもいいの?」 「一生、思いきり笑えなくてもいいの?」
心のどこかで、そんな声が残っていた。
気がつけば、40代後半。
「今さらなぁ…」 「もういいよな、しなくても」
そんなふうに、自分に言い聞かせていた。
コロナの時期、マスクをつけるのが当たり前になった。
夏でも一日中つけていても、違和感はなかった。 むしろ――少し、楽だった。
口元を隠せることに、どこか安心している自分がいた。
コロナが落ち着いても、マスクは手放せなかった。
外したとき、ふと頭をよぎる。
「このままでいいのかな」
そんなタイミングで、矯正の広告が目に入った。
無料診断。 目立たないマウスピース矯正。
気になって、行ってみることにした。
最新の機械で口の中をスキャンして、 そのデータをもとに説明を受けた。
画面の中の自分の歯並びを見ながら、話を聞く。
「このままだと、こうなっていきますよ」 「この方法なら、目立たずに整えられます」
なるほど、とは思ったけど――
どこか、引っかかる感じもあった。
「今月中に決めてもらえたら、割引になります」
そう言われて、少し戸惑う。
たしかに気にはなっている。 でも、その場で決めるには、金額も大きい。
それに、担当の先生の顔もよく分からない。
なんとなく、落ち着かない。
結局、その日は決めずに帰った。
「やっぱり、ちゃんと考えたい」
そう思った。
でも、帰り道。 頭の中には、ずっと同じ言葉が浮かんでいた。
「このままでいいの?」
子どもには、矯正をさせた。 正直、無理もしたと思う。
でも、笑うときにためらってほしくなかった。 あの頃の自分みたいに、ならないでほしかったから。
じゃあ、自分はどうなんだろう。
鏡の中で笑うと、少しガタついた歯が見える。 そのたびに、ほんの少しだけ、心がざわつく。
だから私は決めた。
50歳を過ぎた今、 自分のために矯正をしようと。
あのとき言えなかった「やりたい」を、 今度はちゃんと、自分で叶えてあげたい。


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